2009年5月25日月曜日

新正卓個展『Frame & Vision ― blesseing in forest』へのコメントをご紹介します。

美術批評家の大嶋浩さまから、本展に向けての以下コメントを頂戴いたしました。作家の強い希望もあり、今回弊社のブログで紹介する運びとなりました。皆様、ぜひご一読くださいませ。




拝啓 新正卓 様


新作「frame & vision ― blessing in forest」を大変、興味深く拝見させていただきました。オープニングの際には、直接、感想を述べる機会がありませんでしたが、現在、大学院の講義で「写真(カメラ)におけるフレーミング」の問題を取り上げていることもあり、非常に多くの示唆を受け、考えさせられるものを多く得ました。その一端を述べさせて頂こうと、筆をとった次第です。もちろん、あくまでもまだ直観的なものが多く含まれる分析ゆえ、舌足らずのところがありますが、僭越ながら感想を述べさせて頂きたいと思います。

まずは、つねに新しいことに挑み、挑戦し続ける、新正氏の姿勢に尊敬の念を表します。小林さんとはその方向性は異なりますが、過去の実績にとどまることなく、新たなことに挑み、試みようとする姿勢には、小林さん同様、尊敬に値するものです。

当初、案内DMをいただいた時は、正直、ランドアートやアースアートの類のいわばモダニズム美術に連なる、単なる「知」の表象にすぎない作品かなと思いました。しかし、実際に作品を拝見させていただくと、上記にはとどまらぬ興味を喚起させられました。それが先にも記したとおり、写真におけるフレーム(切り取り)の問題です。

フレームとは現実(それがセッティングされた事物であれ、現実の事物であれ)を切り取り、限定・規定された画面(フレーム)です。おそらく写真家(画家もまた、その限定・規定の方法は異なるとはいえ)は、現実の事物を限定・規定する(限定・規定することは、知覚の縮減でもあるわけですが、三次元から二次元へもその一つです)ことにより、一つのvisionを呈示すると思われます。つまり、現実から何かを区別・分離することで、ある何ものかをvisionとして対象化するわけです。ある意味、絵画的なイメージは純粋なvision(人間の理念的なもの)を呈示することができます。しかし、現実の事物を直接、切り取る(トレースする)写真というイメージは、絵画的なイメージと異なり、つねに現実の痕跡(鋳型)が関係し、侵入してきます。ここに写真というイメージがもつアポリアがあり、つねに問題となるところですが。しかし逆に言えば、ここにこそ、絵画的なイメージとは異なる可能性、力が秘められているとも言えます。

新正氏の新作は、この写真におけるフレームの機能を、絵画的なイメージとは異なるフレーミングとしてあらわにしているように思われました。新正氏はすでに過去の作品においても、フレーム内のフレーム(入れ子)問題を一つのサブテーマとして取り入れていました。以前に書かせていただいた論考では、あまりそれについて触れることはありませんでしたが、ここには「記憶(現実)のなかの記憶(vision、表現)」「記憶のなかの記録」という、記録と記憶の相互作用とも言うべき、写真特有の機能が示唆されていたと思っていました。

さて、「frame & vision ― blessing in forest」では、「現実とvision」の関係(入れ子)のきわめて抽象的、実験的な試みであると察し致しました。「frame & vision ― blessing in forest」では、現実の空間(森)に、紐を張り、空間を切り取り、それを再度、写真によってフレーミングして(切り取って)います。DMの作品紹介では、それが三次元から二次元への、立体から平面への写真というイメージの欺瞞(虚構)性、あるいは見ることの不確実性、視覚の曖昧性とありましたが、むしろ僕は、このことが写真の力であり、虚構の力ではないかと思いました。

なぜならば、写真というイメージに平面化することによって、フレームにおける外と内の融合を視覚化し、あらわにし、現前させているからです。つまり、限定・規定するフレーミング(つまりvision)に対して、入れ子構造により(この入れ子構造は、写真というイメージに変換することで初めて成立するものです)現実を侵入させ、いわば、メタvisionとも呼ぶべきものを現前させているわけです。

思えば、新正氏の写真は、このvisionへの侵入として現実の問題を主題化してきたように思えます。たとえば、新正氏にとっての乳母である「ユキ」の存在。それは記憶に対する、過去から現実への侵入であり、一閃のナイフによる切り裂きであり、あるいは逆に記録(歴史)に対する記憶の懐疑・告発・批評をうながしたように思われます。つまり写真というフレーミング(感覚の縮減)の入れ子によって、現実とvision、記録と記憶、外と内、そのいずれでもない、一つの裂け目、開かれを現前させているように思えます。さらに言えば、そこから浮かびあがるものこそが、現実では見ること、感じることが困難である、物質の内在的なエレメント、一森からの贈物なのではないでしょうか。

非常に舌足らずな物言いになりましたが、いろいろと思考を触発された作品でした。それでは失礼致します。僭越ながら、今後もまたさらなる実験的な作品を楽しみにしております。誤字・脱字を失礼いたします。


敬具 2009年5月13日 大嶋 浩




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